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zoom RSS 生麦事件の犠牲者の手紙発見!横浜資料館で公開!

<<   作成日時 : 2012/07/19 22:18   >>

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生麦事件とは、1862年9月14日、東海道の生麦村(現在の横浜市鶴見区)で、江戸から京都に戻る薩摩藩主の父・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷(1名死亡、2名重傷)し、外交問題に発展した事件のことです。この事件では薩摩藩が賠償金を拒んだため、63年8月に、英国艦隊が報復のため鹿児島湾に現われ砲撃を始めたことで、薩英戦争が勃発したのです。しかし薩摩藩は英国に完敗、手も足も出なかったのです。そのためこれをきっかけに、薩摩藩はそれまでの攘夷政策を転換、英国との連携に向ったのです。そうした時代を象徴するような事件だったのです。

ちなみに尊皇攘夷という言葉をよく使いますが、攘夷という言葉の意味を分かっているようで正確にはよく知らないところがあり、「ヤフーの知恵袋」で調べてみました。もともとは中国の言葉で、中国はよく異民族に征服されていて、漢民族の王朝と言うのは意外と少ないのです。例えば、「明」は漢民族の国でしたが、北方騎馬民族の国家「元」を追放して明国になりました。ところがその後、北方騎馬民族の「清」に征服されてしまいました。清は自国文化を強く押し付けたため、漢民族からは強い反発を受けました。そういう反乱分子が唱えたのが「尊皇攘夷」だったのです。

尊皇は、もちろん中国皇帝の事で、辺境部族が皇帝を名乗る事自体否定しています。その辺境部族である清の女真族は中国東北部にいたのですが、東の辺境部族を蔑む「夷」をあてて、「攘夷」(夷敵をはらう)と使ったのです。つまり「漢民族の皇帝を戴き、東夷の女真族を追い払って、中華の国を打ち立てる」と言う意味で、ここから尊皇攘夷という言葉が来ているのです。これを日本の場合は、外国(夷敵)がやってきた日本で、幕府より天皇を担いで(尊皇)外国人を日本から追い払おう(攘夷)ということに使われたのです。

ところが今回、生麦事件の死亡者が生前書いていた手紙が発見されたのです。生麦事件で薩摩藩士に殺害された英国人男性が事件直前に、母国の家族に「日本は最高の国」などと日本の印象を書いた手紙などがロンドンで見つかったそうです。これを受け19日から横浜開港資料館で始めて公開されたのです。これは事件から150年になる企画展で、2月には男性の子孫も来日、シンポジウムなどを通じて、幕末情勢に大きな影響をもたらした事件の多角的な検証が行われるそうです。

犠牲になったのは英国人チャールズ・リチャードソンさんで、1862年7月、勤務先の上海から観光目的で来日。当時は日本が鎖国から開国へと舵を切ったときで、来日前には「日本は大きな貿易国になる」と書き、日本に高い関心を示していたそうです。来日後は各地に出かけていたと見られ、事件直前には「山や海の景色は抜群で、日本は私が訪れた最高の国」と伝えていました。手紙などの資料は元編集者の子孫マイケル・ウェイスさんがロンドンの自宅で発見、事件が起きた横浜での公開を希望して実現したものです。企画展は10月21日までで、ウェイスさんは事件現場を見学するほか、横浜外国人墓地のあるリチャードソンさんの墓参りをするそうです。

この事件当時、外国人であるイギリス人などは日本の「しきたり」などを知らなかったので、大名行列に遭遇しても、馬から下りて脇で「ひざまずく」などの習慣を知っていなかったでしょうし、幕府も実はこうしたいざこざが起きないために、各藩に習慣の違いで問題を起こさないよう指示を出したと、外国には言っていたと言いますが、実際には周知徹底していなかったそうです。起こるべきして起きた事件だったのかもしれません。

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